第18回ソーシャルイノベーションセミナーを開催しました!  

 6月11日(日)に、ドキュメンタリー映画「みんなの学校」の舞台、大阪市立大空小学校の初代校長/木村泰子先生を講師にお招きし、「第18回ソーシャルイノベーションセミナー」を開催しました。今回は、大空小学校の映像資料をご覧頂き、参加者の皆さんと子どもが学び育つ様子を共有した上で、木村先生と参加者が対話する形で進みました。
 実は、事前の打ち合わせで、トイレ休憩や質疑応答の時間を設定する旨をお伝えしたら、木村先生は一蹴。こんなことをおっしゃいました。

そんなものは必要ありません。トイレは行きたいときに行ったらええんです。授業の前に行っておきなさいって言ったって、急に行きたくなることだってある。子ども達に「トイレに行っていいですか?」と聞かれて、ダメと言ったら虐待ですよ(笑)
「トイレに行ってきます」と知らせればいいだけなんです。今日のお話も、一方的にお話するのではなく、皆さんと対話しながら、進めていきましょう!

 確かにその通りですよね。大勢の参加者の前で、質問したり意見を言うのは気おくれする方もいらっしゃるでしょうが、その時感じたことを一番いいタイミングで発することで、他の参加者の方の思考を促したり、新たな意見が生まれる。それが アクティブラーニングなんですよね。さて、今回は、木村先生から頂いた沢山の学びの中から、映画を見ただけでは分からなかった3つのことを共有します。

『すべての子どもに学習権を保障する』 『学び合い、育ち合う』
 不登校の子ども、特別支援が必要な子どもも含め、すべての子どもが安心して学べる環境をつくることが大空小学校の理念です。
 「みんなの学校」をご覧になった方には印象深いであろうシーンの一つに、「こんな学校、もう引退や!」と叫び学校を脱走したセイシロウくんをクラスメイトが迎えにいって、一緒に教室に戻ったシーンがあります。私たちはこのシーンを『支援の必要な子を健常な子がサポートしてあげている』と思っていたのですが、木村先生のお話を聞いて実際は逆だったことがわかりました。セイシロウくんは、3年生まで他の公立小学校の特別支援学級に通っていて、教室には1日のうち1~2時間しかいることができず、友達ともほとんど遊んだことがありませんでした。学校は自分をいじめる子が沢山いる場所。そう思っているセイシロウくんは、「少しでも長く通える学校に転校させたい」という母親の思いで大空小学校に引っ越してきました。教室に居たいのに、なぜだか安心して居ることができないセイシロウくん。一方、迎えに行かされたクラスメイトのリョウジはというと、大好きだった担任の先生が転勤でいなくなったとたん、すっかりやる気を失い、ふてくされる、授業もさぼる・・・という状態でした。教室に居れるのに居ようとしない自分と、教室に居たいのに居れないセイシロウくん。このときセイシロウくんはリョウジの学びのリーダーだったのです。特別支援が必要な子だけが助けられるのではなく、お互いが助け合い、学び合い、育ち合う。それが大空小学校なのです。

『主語はこどもである』
 木村先生が何度も繰り返しお話しされていたのは、『主語はこどもである』ということでした。教師が育てる、指導するのではなく、子ども達が学び合い、育ち合うこと。もちろん、教師も子ども達から学びます。指導とは、教師や大人が自分達のコントロールしやすい状況に閉じ込めるような、大人が主語の行為。振り返ってみると、木村先生は講演の2時間半、一度も『育てる・指導する』という言葉を使いませんでした。
 大空小学校では子ども達がみんな安心して学べているか、「自分から自分らしく自分の思いを語る」姿を子ども達の事実として指標としているそうです。正解のない自由な空気の中ではどんな子どもでも、自分の言葉で自由に話し、表現するそうです。先生達の仕事は、授業、教室の中心にいることではなく、透明人間でいること。大人がしゃしゃりでてこなければ、子ども達はお互いで起こった問題を考え、学び合い、解決していくのです。大空小学校の6年間で子ども達が学んだことは、教師が教えたのではなく、自分達で学び合い身に付けたことなので、全然違う文化のある中学校に行っても自分達で考えて行動できているそうです。

『こどもの関係性を障がいを理由に分断しない』
 最後に、障がいについて、先生が大空小学校での9年間で納得した解をお話しして下さったことを、先生の言葉を大事にしながら、以下にまとめました。

 重度の知的障がいのある子が将来自立する力をつけるためにみんなと違う教室で、自立するための訓練や学習をするのがこれまでの世界。でもこれからは、重度の知的障がいのある子が10年先に自立するために訓練して作業を覚えるような、重度の障がいがある子が自立しなければ生きていけないような社会を作っていてはいけない。
 障がいは病気ではないから、治すものではない。でも学校がよく迷子になるのは、障がいのある子を“健常と言われる子”にどれだけ近づけることができるか、という教育を学校が行うことは、差別教育、人権侵害と言っても過言ではない。学校現場で一番大きな課題になっている、知的障がい、多動性、発達障がい、ADHD、アスペルガーと言われる子ども達がこの1~2年間で3倍に増えている。10年後、20年後、そんな子ども達が大半を占めて、そうでない子ども達が一握り、こんな時代に突入するのは目に見えている。そう考えたときに、障害は治すものではない。
 障がいはその子である、その子が持っているその子らしさ、その子の特性である。そう考えたときに、障がいは個性である、と気づいた。個性はつぶすものではなく存分に伸ばすもの。障がいを個性と捉えたら、障がいを長所に変えることが個性を伸ばすことになる。
 個性を伸ばすために必要な力は、障がいのある1人の子どもに字を教えることや、言葉をださせる訓練や、服を着替えてボタンを一人で留められるように別室で練習ことではなく、この障がいのある子どもの周りの子ども達がどれだけ育つかということにかかっている。特別支援の専門家ではない一般の小学校教諭ができることは、その子の周りの子ども達が高め合い、育ち合うことで、障がいのあるその子が存分に自分を発揮できる、その子がその子らしく活き活きと学ぶことができる。障がいのある人が障害のない人と共に生きる、これは対等に生きるということ。幼稚園、保育園までは一緒に遊んでいたのに、障がいを理由に1年生から子ども達を分断してしまうと、あの子達は自分達と違う子と思ってしまう。
 決して同じ教室で学ぶことが目的ではない。同じ教室で学ぶことで、「自分は普通、こいつは格下」と彼らの違いを差として見下すようなことになるくらいなら、違うところで安全なエリアをつくってもうらほうがよっぽどまし。みんなと一緒にいることで、つらい、障がいを存分にだせない=自分をだせないのであれば、息苦しい思いをさせるだけ。一緒に学ぶべきなのか、分けるべきなのか、そこを論じている間は、全部主語は教師になってしまう。子どもがどんな状況であっても、子ども同士の関係性を障がいを理由に分断しない。お互いが学び合える環境を作るのにどうやっていこうと考えたら、手段は沢山でてくる。障がいのある子どもが、“健常と言われる子ども”の学びの場から分断されることで、障がいのある子どもが失う力よりも“健常と言われる子ども”にとって失う力のほうが遥かに大きい。そしてこのことに気づいた人間が社会を見直すことが必要。

 6年間、大空小学校で大きな学びを身に付けた子ども達の足元にも及ばないながらも、大人として木村先生の語った言葉、提示された課題を、自分ゴトとして自分の言葉で表現したいですね。
 木村先生、ご参加頂いた皆さま、ありがとうございました!